ひめのーと。

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日本の選挙に行く意味なんてあるの?

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衆議院の任期満了が迫っています。自民党では「選挙の顔」となる党のリーダーを決める総裁選挙が行われています。
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一方、立憲民主、共産、れいわ新選組野党共闘を目指し共通政策への合意を図るなど選挙へ向け、各陣営の動きが活発化しています。
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選挙の日って、用があるからいけないし。
用がなかったとしても、わざわざ時間を割いてまでやること?
そもそも興味ないし、日本を託したい候補者もいないけど…

前回の衆議院選挙の投票率はおよそ54%です。
選挙に行かない人の中には、選挙や政治に対して消極的な意見を持つ人もいます。*1
日本において、選挙はどのような役割をはたしてきたのでしょうか。

今回は、戦後の日本政治の流れから選挙に行く意味があるのか考えていきます。

実質的な選択肢がなかった「55年体制

55年体制とは、自民党日本社会党の二つの政党により1955年に作られた体制です。
自民党のHPによると、

わが国が真に議会制民主政治を確立して、政局を安定させ、経済の飛躍的発展と福祉国家の建設をはかるためには、自由民主主義勢力が大同団結し、一方、社会党も一本となって現実的な社会党に脱皮し、二大政党による健全な議会政治の発展をはかる以外にない
自由民主党結成 | 歴代総裁 | 党のあゆみ | 自民党について | 自由民主党

との考えの下、日本民主党自由党が合流して結党したことが記されています。

自民党社会党が争う二大政党制を目指したんだね

しかし、この二大政党制は機能することがありませんでした。

どうして機能しなかったの?

それは、日本が自由民主主義以外の政策をとることができなかったからです。
アメリカは、第二次世界大戦のあと共産主義国家・ソ連との対立が鮮明になり、冷戦を始めます。
ソ連に対抗する拠点として、日本を自由主義陣営にとどめておく必要がありました。

日本の政権は、反共産主義、親米政権である必要があったんだね

アメリカ資料には、アメリカの情報機関が親米派と保守派に資金援助を行い、左派野党の穏健派にも資金援助をしていたとの記述があります。
なお、話はそれますが日本社会党は、中国(その後にソ連)から、共産党ソ連からそれぞれ資金援助を受けていたとの指摘もあります。

アメリカ軍が駐留している日本に選択肢は、実質的にはなかったんだね

55年体制により国民が恩恵を受けた部分があります。それが、経済復興、経済成長です。
アメリカとの同盟関係を結ぶことと引き換えに、アメリカ市場に工業製品を売り込んで経済成長を追求することができました。

一方で、55年体制による弊害も生まれます。
自民党の議員を支持し、応援することで、自民党の議員はその支持者が求める政策を進めようとします。
自分たちが進めてほしい政策があるのであれば、自民党の議員を応援する。自民党の議員は、応援してもらった見返りに、有利な政策を支持者に与えるという関係ができます。

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鉄の三角形

実際に政策を作るのは官僚ですが、自民党はずっと政権を握っていますから、自民党の議員のために政策を作る人のほうが、政府に大事に扱われるようになります。つまり出世するのです。
こうして、自分たちに利益を誘導する、政治家・支持者(特に経済界)・官僚の関係「別名・鉄の三角形*2」が生まれるのです。
また、野党である日本社会党との関係について、報道でこのような証言が行われています。

平野貞夫・元参議院議員は「野党が政権を取らない代わりに国会を"労使交渉"の場にした。自民党が資本家で、社会党以下、野党は労働組合という構図だ。自民党が野党におカネを渡して、国会では揉めても、裏で円満にいくということになっていた。私も、社会党の先生方にお金を持っていくのが仕事の一つだった。また、当時の自民党保守本流で、大変立派だった。みんなが一緒に豊かに全国隅々まで発展しようというのが考えがあったこともあり、安定していた」と振り返る。
自民党政権が倒れた日〜\"55年体制\"が崩壊した1993年を検証!総選挙プレイバック(1) | 政治 | ABEMA TIMES

与野党みんなで談合していたんだね

この55年体制は、1993年まで続きます。

55年体制」の終焉と「二大政党制」への準備

なぜ、「55年体制」が終わったの?

様々な理由があります。
1973年に高度経済成長が終わり、それ以降は”成長の分け前”を決めるため政治が限界を迎えつつあったこと、1991年に冷戦が終結し「共産主義陣営」になる可能性がなくなったこと、このために黙認されてきた「金権政治」に対する批判が噴出したことなどが挙げられます。

金権政治

金の力で政治に影響を与え、政治的決定を左右する状態*3のことです。
上で述べた、政治家・支持者・官僚の連携の中に絡むお金、さらに野党へ与党がお金を配るといったことが「金権政治」といえるでしょう。

1992年から1993年にかけて「新党さきがけ」、「新生党」、「日本新党」といった政党が結成され、1993年の選挙では、これらの政党を含む8つの政党が協力することで、自民党が含まれない初の政権がつくられました。
この時に、選挙制度の改革が行われます。

どんな改革?気になる

衆議院選挙制度中選挙区制から、小選挙区比例代表並立制選挙制度に変えました。
中選挙区制度では、一つの選挙区から2人以上の議員を選出します。一つの選挙区に同じ政党から複数の議員を出馬させることができるため、同じ党の候補者であってもライバル関係が生じ、相手を出し抜くために多くの活動資金が必要であったといわれていました。

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中選挙区の戦い

これが「金権政治」の原因であると主張され、一つの選挙区で1人の議員しか当選できない小選挙区制度を中心とした選挙制度への改革が進んだのです。

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小選挙区の戦い

また、これには2大政党制への準備の意味合いもありました。
小選挙区では1人しか選ばれないので、当選者以外の投票はすべて反映されません。
得票数の差が1票しかなくても、片方は当選し、もう片方は落選という大きな差を作り出します。
勝敗がはっきりつくので、自民党日本社会党が当初目指していた二大政党制にとっては都合の良い制度だったのです。

同じ政党同士の争いを排除して「金権政治」をやっつけようとしたんだね

この選挙改革を実施した後、連立政権は一年足らずで崩壊します。8つの政党の寄り合い所帯で構成されていましたが、そのうちの日本社会党新党さきがけ自民党に切り崩されてしまったのです。
この切り崩しの条件として、55年体制で表面上は自民党と対立していた日本社会党のトップを総理大臣に据えました。

自民党はそこまでしてでも、与党でいたかったのね

続く1996年に自民党は総理大臣の座こそ取り戻しましたが、単独では政権を成立できない状態が続き、自由党公明党・保守党と連立を組みつつ与党の座を死守します。

一方で、1993年に一度政権交代を担った政治家たちは離散集合しながら再び「政権交代」への準備を進めていました。そして、二大政党の一翼を担う「民主党」が誕生することになります。

自民党をぶっ壊して」でも与党にしがみつく自民党

話を自民党に戻しましょう。
自民党は単独で政権を担うことができない状態でずるずると続いた自民党政権ですが、
2000年と2001年には、総理大臣の支持率が歴代最低の9%*4にまで落ち込んでしまいます。
そこで危機感を持った、自民党の議員たちは2001年に「自民党をぶっ壊す」をスローガンに掲げるリーダーを総理大臣として担ぎ上げました。

自民党をぶっ壊す」ってどういうこと?

自民党を作っていた、「派閥」と「族議員」による政治構造を壊すことです。

「派閥」?「族議員」?

まず派閥を説明します。派閥とは、「カネ、ポスト、選挙」の互助会です。
カネとは、活動資金のこと、ポストとは、各省庁の大臣や党の役員、選挙は文字通り選挙のことを指します。

まって、金権政治は終わったんじゃないの?

一位を取らなければならない小選挙区制度では立候補者が二人の場合、過半数の票を取得しないと当選できません。
そのためには自分のことが嫌いな人、興味のない人にも投票してもらう必要があるとの考え方が生まれます。
中選挙区時代は党支持者などを引き抜きあう活動でしたが、小選挙区ではいろいろな立場の人を取り込む活動に方向性は変わりました。
しかし、かかるカネにあまり変化はありませんでした。
お金の流れを監視するために、選挙制度と一緒に政治資金規正法という法律も作られましたが、政治家は手を変え品を変えお金のやり取りを継続させています。政治資金規正法は抜け道ばかりのザル法と報じられる*5こともあります。

金権政治解消はうやむやになっていたんだね

さらに、一般に広く自分のことを訴えるには、実績もありテレビによく出ているような政治家に応援してもらうことも不可欠です。このようなことから派閥の必要性は選挙改革が終わった後も変わりませんでした。

どうして派閥ができたの?

派閥の源流は、自民党結党当初の日本民主党自由党の有力政治家の間の権力闘争にみられます。
それぞれの派閥は考える政策が異なり、自分たちの政策を実現するためには、グループの中から総理大臣を出せるよう、党内の多数派になる必要がありました。
一方で一度総理大臣が決まれば、党から抜ける人がでないように、自分以外の派閥にも見返りを与えます。大臣などの要職はこの力関係によって決められていました。
結局、自民党の議員たちにとって党の存在意義は権力を掌握できる与党であることです。派閥はそれを維持するために、温存されたのです。
さらに派閥があることで、イメージが異なるリーダーを適宜輩出することができます。これにより、政権交代を求める世間の声を弱める効果があります。

リーダーが変わることで自民党のイメージを変えることができたんだね

次に族議員について説明します。族議員とは、特定の分野の政策や知見に優れている政治家のことです。
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上で挙げた図を再掲しますが、右下の位置にある政治家が業界に精通した族議員となるのです。
族議員は業界との結びつきが強いため、利益誘導政治の温床と指摘されることもあります。
一方で複雑化する現代の問題に関し、その分野に精通している族議員が官僚の政策を磨き上げ、より優れた政策を生むこともあるとの見解も存在します。

その筋のエキスパートがいることも大事なのかもしれないね。そんな仕組みをを壊しちゃっていいのかな?

総理大臣が唱える政策と、彼らの存在が対立することも多くあります。そのため、総理大臣が実施したい政策を完璧な形で実現することが難しい状態になるといえます。
『派閥や、族議員が邪魔をするから日本の政治がうまくいかない』という筋書が国民に広く受け入れられ支持を集めたのです。
総理大臣が、強く引っ張っていく「官邸主導」の政治がこの頃から始まろうとしていました。

「二大政党制」の夢、「官邸主導」から「政治主導」へ

この「官邸主導」による自民党政治は、2009年に民主党が政権を奪取したことにより一度、終わりを迎えます。

どうして、自民党政治は終わってしまったの?

自民党が行ってきた「新自由主義政策」の影響が大きいといわれています。

新自由主義政策」?

新自由主義政策とは、これまでは公共事業として賄っていた分野や、行き過ぎた競争が起きる可能性をなくすために、決められていた様々な決まり事をなくしていく政策です。
日本の経済成長が、進まなくなったことは上でお話ししました。利益の分け前が限られている中で、効率化することが求められたのです。
民間の活躍の場を広げることは、物事を効率化する「市場の原理」を取り入れることになります。この政策を取り入れることで、いろいろなものを安くし、便利になるようにしたかったのです。
例えば、昔はお米はお米屋さん、お酒はお酒屋さんでしか買えなかったり、大型のスーパーやショッピングセンターは法の制約で建てるのが大変だったりしました。
それが、現在はお米やお酒はコンビニや薬局でも買えるようになりましたし、郊外に大きなスーパーやショッピングセンターがたくさんできています。

安くてまとめ買いができるからとっても便利だよね…それっていけないことなの??

一方で、これまで身近なところで生活を支えていた商店街、小売店舗は大打撃を受けてしまいます。近くの商店街で済んでいた買い物が、何を買うにも遠くのショッピングセンターまでいかないといけなくなります。
これ以外にも、いろいろな部分で不便になることが出てきました。
また、お金や人の動きが特定の部分に集中する「富の偏り」が起きて人々の格差を広げていったのです。

いいこともあったけど、まずいこともたくさんあったんだね

そんな国民の不満の受け皿になったのが民主党です。民主党は「国民の生活が第一」というスローガンのもと、自民党に対抗するもう一つの選択肢というイメージを打ち出します。
そして2009年の衆議院総選挙でついに自民党を打ち破ることに成功しました。国民が政策を選ぶ、二大政党制がここに始まったのです。

国民の生活を第一に考えてくれるなら期待できるね

民主党は、自民党政権下で温存されていた公共事業やその他の無駄な政策に目を向けていました。
その無駄を徹底的に削ぐことでねん出したお金を使い、新自由主義で困ってしまった人々に手を差し伸べる政策を行おうとしたのです。
しかし、「新自由主義」で無駄の部分が見直されていましたからお金が思うようにあつまりませんでした。
国民に約束した政策を実施することができなかった民主党は、約束した政策の絞り込みを行い、さらに時間や対象を限って実施することにしました。
公平にするために分配しようとした政策がゆがんでしまったため、逆に偏りや不公平を生むことになりました。

どうしてそんなことになってしまったの?

野党経験が長く、政権を握ったことがなかったこと、そして「政治主導」を前面に打ち出して、事情に通じている官僚の意見をあまり聞かなかったことなどが挙げられます。

「政治主導」?

自民党政権下では、政策を考えるのは官僚の仕事でしたが、二大政党制になるにあたり
国民の信託を受けた政治家が中心となって、政治を行うべきであると考えたのです。
理想的な体制ではありますが、実際に行われる政治は、多くの人にとって平等であり、また正しいと感じられるものでなければいけません。
政策を変えた場合に起こりうるデメリットや、政策から漏れてしまう人への配慮などをしっかり考える必要があります。そのためには事情をよく知る官僚と協力する必要がありました。
しかし、民主党政権ではそれがうまくできなかったのです。

夢のない時代へ

民主党政権は、2012年12月に終わりました。期待した「二大政党制」と「政治主導」が夢物語だったと国民が痛感したのです。
2016年に民主党は分裂し、二大政党制は瓦解します。政党ごとの支持率は、2012年以降は自民党が40%近い支持率で推移しています。

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政党別支持率の推移

出所:社会実情データ図録 図録▽時事トピックス:政党支持率の推移

一方で、議席数は6割を超えます。

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自民党衆議院議席占有率の推移

出所:社会実情データ図録 図録▽自民党衆議院議席占有率の推移

日本の問題を解決するには、これまで自民党政権下で敷かれた「新自由主義」路線を、しぶしぶ受け入れていくしかないという方向性で進んでいるのです。

半数以下の支持で過半数議席が取れてしまうのは本当にいいことなの?

これは、小選挙区では当選した人に入れた票以外が全て無駄になってしまうことに起因します。
小選挙区制度は、拮抗している二つの政党から与党を意図的に選び出し、政局を安定させるためのしくみです。
2005年の総選挙では自民党は73%の議席を獲得しましたが、全得票数の48%の票数しか集めていません。
反対に、2009年は、民主党が74%の議席を獲得しましたが、全得票数の47%にとどまります。
二大政党制を目指して導入した小選挙区制度のデメリットともいえるでしょう。
自民党と競争する第二の政党がいないため現行の選挙制度は、狙いどおりに機能できないのです。

自分の意見で投票したところで、政局に反映されないなら選挙に行く意味ないでしょ…

日本の選挙を機能させるには

現行の選挙制度比例代表を中心としたものに変更し、民意の割合がそのまま国会に反映されるようになるべきとの見解も存在します。
一方で、比例代表を中心とした制度で民意を正しく反映できますが、単独で過半数を獲得するのが難しくなり、複数の党で連立を組まなければ与党になることができなくなります。

自民は勝つために長年対立していた政党とも手を組むくらいだから、少数党が意見を言いやすくなる比例代表を中心とした制度の方がいい気がするけどなぁ

比例代表のデメリットには、上に加え小選挙区にある地域に密着した代表という面が薄らぐため、地域発の問題が取り上げられにくくなる可能性もあります。

なにをとっても長所と短所があるんだね

少し話がそれますが、現行の選挙制度では一人1票の原則が実質的に守られていません。憲法に違反する状態で行われていた過去*6があります。

どの問題から考えても、選挙・国会の機能が十分に果たされているかという疑問が問われ続けることになるでしょう。

選挙制度がきちんと機能するようになって、政策を推し進める力と民主主義のバランスが取れた世の中になるといいね